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護憲派は憲法は国民から国家への命令だと宣伝を

1 :無党派さん:2010/06/11(金) 23:29:11.46 ID:o0THURe2
憲法は,「国家権力(司法・行政・立法)全てを縛るための命令」である。
憲法とは「国家権力の暴走をくいとめる最後の鎖」として誕生したものだという。

憲法は国民が守るものではないのです、国家が守る義務があるものなのです。
憲法は主権者である国民が国家権力の暴走に歯止めをかけるため国家に対して命令してるのです。

こうした認識をどれだけ持てるか、その度合いが民主主義の成熟度であろう。

小林節 無知 無教養がはびこるこの国の政治
http://www.magazine9.jp/interv/kobayashi/index.html  一部抜粋
「9条を守りさえすればこの国は平和で、9条を改正されたらこの国は危ない」
なんて言って内輪で会合を開いて、影響力のないところで護憲念仏を唱えて、うっとり
していた時代が長すぎたんです。
そんなことより、小・中・高校と大学の憲法講座、一般教養の法学講座できちんとした
憲法教育をすることが護憲派の役目なんですよ。立憲主義の教育を全然してこなかった。
それでいま襲われて焦っているわけだからね。
立憲主義は、人間の本質に根ざした真理です。つまり、権力は必ず堕落する。なぜなら権力
というのは、抽象的に存在するのではなくて、本来的に不完全な生身の人間が預かるから
なんです。つまり政治家と公務員が、個人の能力を超えた国家権力なるものを預かって堕落
してしまうということです。 歴史上、完全な人間は一人もいない。不完全だから、
必ず堕落するんです。権力者の地位に着くと、自分に「よきにはからえ」となる。
だからこそ憲法をつくって権力を管理しよう、そういう仕組みになっているんです。

社民党はただ護憲、9条を守れと叫ぶだけでなく憲法とは、主権者である国民の側が
国家権力に対して命令するものという事を宣伝をすべきだ。

2 :無党派さん:2010/06/11(金) 23:34:19.20 ID:o0THURe2
前スレ
社民党は憲法は国民から国家権力への命令だと宣伝を
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/giin/1201246663/

なぜかこの板はいつの間にか半分以上がスレ落ちして
このスレもなくなってたので、続編を立てました
スレタイはサブジェクトが長いと出たので少し変えました

3 :無党派さん:2010/06/12(土) 16:59:22.57 ID:M0y5EWc8
憲法が憲法として機能するための国民常識とは何か? - MIYADAI.com Blogより
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=80

■第一に、憲法が統治権力への命令であること。詳しく言うと、
(1)憲法が国民から統治権力への命令で、(2)法律が統治権力から国民への命令で、
(3)憲法が法律に優越するとは、国民からの命令の範囲内でのみ統治権力は国民に
命令しうるということだ。

■さて、私たちに憲法常識はあるか。例えば「憲法が国家への命令」であるのを
知っているか。もし知っていれば、衆参両院の憲法調査会でしばしば出る
「日本国憲法には権利規定ばかりで義務規定が少ないのはオカシイ」という
幼稚園レベルの議論はありえない。

4 :無党派さん:2010/06/12(土) 17:00:13.35 ID:M0y5EWc8
「憲法対論」という本から

憲法の背後には、統治権力がきわめて恐ろしいものだという発想があります。
ホッブスがリヴァイアサンと表現したものです。実際に十六世紀には国家が
リヴァイアサンであることを裏付けるような社会的事件が頻発したわけです。
統制されるべきは、社会や市民よりも以前に国家であり統治権力だ。こういう
発想を分かっていないのは先進国では日本人だけです。こうした日本的発想の背後
には、儒教的国家観があります。統治権力は道徳の守護神であり、統治権力の頂点
には最も道徳的な人間が座るべきである、それゆえに、完全なる徳を体現した統治
権力が、徳において不完全な民衆に命令できるというスキームになります。
そのために、道徳的な統治権力が不道徳な発想の中で、憲法もまた理解されてしま
いがちなのです。だから、憲法に従うのは統治権力だけだということが理解できず
市民が従う最高原則を憲法だと思ってしまう。それがあって、エクスプレッション
を支える自明性が、弱者を抑圧するアクションになるような社会を変えようという
ときに、統治権力に命令させようという発想になりやすい。

日本は立憲政治が成熟してない、その意味では日本は近代国家ではなく「国家が
リヴァイアサンだ、統治権力は危険だ」という発想を国民が持ってない
すなわち統治権力との間で社会契約した契約当事者たる市民がいない
国家性悪説どころか、儒教的な国家性善説が流通する民度の低いダメな国です。
そういう国では、チェック&バランスのアーキテクチャーが上から下まで徹底的に
欠如します。行政情報公開にも消極的だったり、自治体に情報公開条例があっても
公安委員会(警察)が除外されていたりと、他の近代諸国ならば考えられない
馬鹿げた法制が続いています。統治権力をチェックする行政オンブズマンも
市民オンブズマンも、他の近代諸国ならば考えられないことですが僅かしかいません。

憲法をどう変えるか以前に、憲法とは何なのかの理解を深める必要がある。

5 :無党派さん:2010/06/16(水) 20:24:40.20 ID:m3NOW6Zp
法律と憲法の違い。法律は「国家権力による強制力を持った社会規範」、平たく言うと国民を縛るものである。
それが「正しい」と考えられるのは、その時代の「多数意見」の反映だから。でも人間は間違うものである。
つまり多数意見が常に正しいわけではない。多数意見でも奪えない価値を守るためには、多数意見に歯止めを
かけるものが必要と考えられた。これが憲法である。

つまり、憲法は国民を縛るものではなく、国家権力に歯止めをかけるものである。国民ではなく国家を縛る。
だから公務員には、総理大臣を含め、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)がある。多数意見でも奪えない価値、
それが基本的人権である。

憲法の中心価値は「個人の尊重」である(憲法第13条)。そして、この「個人の尊重」には「人みな同じ」
ということと、「人みな違う」ということが含まれている。違うのが当たり前であり、違いこそが価値、
素晴らしいことなのだと考える。みんな違うからこそ、一人一人の価値は「平等」に扱われなければならない
と説いているのだ。それぞれの違いを前提に、それぞれの幸福を追い求める権利を、すべての人が持っている。
これが幸福追求権。何が幸福であるかは、一人一人が判断する、自己決定権にゆだねられている。だから幸福権
ではなく、幸福追求権だ。

個人の尊重、違いの尊重、一人一人の基本的人権を大切にするためには、多数意見がそれを奪い去るようなこと
には歯止めをかけねばならない。他人の不幸の上に成り立つ幸福は本当の幸福ではない。無実の人の不幸の上に、
他の人たちの幸福が成り立つ社会ではダメで、疑わしき人は社会に戻す、そのことによるリスクは社会全体で
引き受けるという考え方である。憲法の三大原理、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は、いずれも
「個人の尊重」から導かれる。

6 :無党派さん:2010/06/19(土) 01:30:11.80 ID:O43Y+IIH
憲法改正をするとしても少なくとも日本の政治家、官僚、国民の民主主義の意識
と日本が民主主義国家として成熟するまではしない方が良いと思う。
政治主導、地方分権ができないようなうちはやらない方がいい。今の状態で
憲法改正を頻繁に行うようだと危険な気がする。いずれ政治に無関心、無知な多くの
国民と少数の国民の賛成で権力者たちに都合の良い憲法になっていく事もありえます。

そもそも近代以降の憲法は、国家権力などの公的権力の行使に枠をはめて、国家機関
が勝手なことをしないように歯止めをかけています。単に国家の基本的なあり方を
規定しているだけではありません。国民主権と基本的人権を保障すると同時に権力
分立制などを採用することで、国家権力が暴走することに歯止めをかけています。

もちろん、憲法をより良く改正したいという場合はあるでしょうが、しばしば、
「より良く改正する」といいながら、実質的には悪く変えてしまう事もありえます。
国民は政治や政党に対して常に監視し、これを怠ってはいけません。
そうしなければ、国民の基本的人権の保障、平和の確保は、後退することに
なるでしょう。

国民主権、議会制民主主義の下では、最終的には、選挙によって、悪政を正すこと
ができるのです。ですから、選挙で信頼のおけない政治家を落選させたり、少し
でも信頼のおける政党の勢力を増やすよう選挙運動したり、投票したりすることが
考えられます。国民が選挙に行かなければ、今の憲法に敵対的な政党は喜んでいる
ことでしょう。

傍観しているだけでは、政治は変わりません。しっかり監視して、主権者である国民
のための真の政治・行政を実現しなければ国民主権は「紙に画いた餅」に終わって
しまいます。

7 :無党派さん:2010/06/20(日) 20:30:07 ID:FQBdOa1M
議員・選挙板は選挙や政局、議員の裏情報とかには興味はあっても
政治の思想や理論は関心ない人もいて、
憲法は,「国家権力(司法・行政・立法)全てを縛るための命令」
憲法が国民から統治権力への命令
という考えを知らない人もいるかもしれない
ですので、立憲民主主義を広めたい人は
このスレに時々書き込んであげ(age)ましょう。

8 :無党派さん:2010/06/21(月) 20:05:04 ID:6FyzrAz5
戦後日本がまがりなりにも、民主主義国家でいられたのは、日本国憲法
があったことが大きい、憲法は国家権力を縛り、主権である国民の人権
を守るもので国民からの命令でもある、もしこの憲法がなければ、戦前に
逆戻りしていた可能性はあります。冷戦時代のアメリカは親米で反共でさえ
いれば、よかった所があったから。
国家主義的な反民主的な政治家がいるうちは日本国憲法は今の日本の民主主義を守る最後の砦、守護神とも言える。

9 :無党派さん:2010/06/22(火) 21:33:42 ID:+/gQAL45
昔の学校の教科書を見ると、憲法は国家の最高法規、国の政治の根本となるきまり
条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為はその効力を有しない
(98条)とあり、政治は憲法にもとづいて行われなければならない、
これを立憲主義といい、立憲主義にもとづく政治を立憲政治というとあり、
それに三大原則、基本的人権、国民主権、平和主義について書かれてある。
ただ、憲法は国家権力を縛るもの、とか国民からの命令とまでは書いてない。
それは教科書会社が、一つの学説だと考え、そこまでは書けないと判断したのか
それとも、書いたのだが、文部科学省が検定で認めなかったのか?
しかし、ロックの社会契約説、革命権、モンテスキューの法の精神、三権分立
その他、人間は自由でしかも平等なものとして生まれ、自由、所有権、安全などの
権利(自然権)を持つとか、法は自然権の理念に従い、人々を平等に扱い、支配は
基本的人権を保障するために、政治権力を法によって制限し、為政者もこの法に
従うという法の支配の事も書かれている。これらも一つの思想なのだから憲法は
国家権力を縛るものと書いてあってもいいはずなのだが。
もちろん、政治権力を法によって制限とはあるが憲法とは書いてないし、主権者の
国民が縛るとまでは書いてない。これでは、憲法は国民から国家権力に対して命令
するという発想は詳しく現場の教師が説明しなければ出てこないと思う。
現に憲法は国民も守るものと思ってる人は多いし、自分も最初はそう思ってた。
結局、文部科学省や政治家は自分たちが国民に縛られてる、命令される存在とは
国民に教えたくもないし、知られたくもないのだろう。

10 :無党派さん:2010/06/24(木) 20:45:34 ID:EAQ6K2pQ
http://www.kakyouso.com/kinkyu/k060918.htmlから
「9条2項がなければ、日本は朝鮮・ベトナムの戦争に行っていたはずだ」
と言っている。アメリカでイラクに徴兵されているのは、志願兵だ。
貧しい故に志願している。「貧しい人間だけが死ぬ、犠牲になるのなら
いいではないか」という発想である。
憲法を「改正」するということは、憲法そのもののあり方が変えられると
いうことである。
近代立憲主義の原理原則である「国家権力の制限規範としての憲法」を
転換するということだ。実際、民間憲法臨調の三浦朱門・中西輝政などは、
「近代立憲主義をやめて、国民論の視点をもとう」と提言し、憲法には
「国民の生き方を定めればいいのだ」と公言している。

11 :無党派さん:2010/06/24(木) 21:24:03 ID:Dwi43Yps
これは法学板あたりでやるべきであろう。

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